−43 僕は「正しく」生きれない

2.18

おととい書いた「先輩」のことをまだ引きずっている。(いつまで引きずっているんだ)

論理的に行動する傾向と、感覚的に行動する傾向。人はそれぞれ、このバランスが違うのだと思う。

 

論理的に考えて行動する人は、感覚的に動く人を見て・意見を聞いて「間違い」を平然とおかす姿にイラつくのだろうし、感覚的に動く人は「正しい」事ばかりを言われて息苦しくなってくる。

 

僕は感覚的に動く傾向がやや強いと自覚している。

だから、論理的な先輩の正しさの押しつけで、上下関係も手伝って食らってしまった。

 

スパイ映画とかを見て「賢い人」に憧れてきたけど、僕はたぶん賢くなれない。情報を一瞬で整理する力に乏しい自覚がある。まず、部屋が片付けられないし。こないだの引越しと、その時の友人の反応で、その「片付けれなさ」が少し異常なことに気づいた。

あと、こうやってすぐ話が脱線する。

 

だけど、こういう「正しさ」を指針に行動しないことこそが、僕が誇れることではないだろうか。

人間は「正しい」ことだけをするわけではない。

だから人は不倫や浮気をする。

 

意見の食い違った結果導き出された「正しさ」なんて、その場でどっちがディベートが上手かったかの勝負に過ぎなくて。

僕は、自分が正しくないことを知っている。

だから、人は皆正しくないこと、「まぁこっちでいっか」と、それぞれ最後は論理的思考に見切りをつけた感覚的な「心地よさ」を求めて生きていることを知っている。

「正しさ」を押しつけないことこそが僕のいいところなのだ。