−14 東京苦手だったけど

3.18

サークルの現役時代に年に2回くらい行くだけだった東京は、なんか苦手だった。

電車ごちゃごちゃしてるし、人多いし。

 

それが、友だちの家を転々とする生活を送っていると、不思議と好きになってきた。

旅行者と思われるのがなんか嫌で、ちっさいリュックに詰め込んだ荷物を背負って、そこで暮らす人々に囲まれて、そこで暮らしてるような顔をして、知らない街の中を走る電車に揺られる。

 

友だちの住む街には、当然そこで暮らす人々の生活があって、京都に住んでた友だちも、「そこで暮らす人」になっている。

会う場所は変わっても、友だちは変わってなくて、変わってないのが妙に嬉しくて。

どこに行こうと変わらない生活というものはついてくるんだなと、当たり前のことになんか勇気づけられたりした。

 

環境が変わることが怖かった。

でも確実にその時は近づいている。

中学から高校に上がる時よりも、高校から大学に上がるときよりもはるかに大きい環境の変化。

なんとか生きていける気がする。

 

みんなありがとう。

−31 青春

3.1

 

どこかで「大人は青春を綺麗な言葉でまとめようとする」と書いてあるのを見た。

その通りだ。

思春期とか、青春とか、わかりやすい言葉でまとめられがちな季節というものは、本当はもっと複雑で、曖昧だ。

ずっと、今の渦巻く気持ちを、綺麗な言葉にまとめて過去のことにしてしまわないようにしたい。

若者の支離滅裂な嘆き、愚痴、愉しさを、曖昧なまま受け取れる大人になりたい。

 

 

大人大人言ってるけど、そもそも「大人」ってなんだ。

大人という言葉に意味を持たせすぎてきた気がする。

プロフィールに「大人と子どもの間を彷徨う…」とかおもっきり書いてるけど。

 

今になって思う。

本当は「大人」に「歳を重ねた人間」以外に意味なんてないんじゃないか。

大学出て働きだしたら、みんながみんな学生時代にあった何かを犠牲にしないといけないとも思わないし、何かを背負わないといけないとも思っていない。

自分次第な気がしている。

揉まれて、流されて、立派なふりをすることにしか生きる価値を見出せなくなった人たちが勝手に

「大人とはそういうものだ」と言い出したに違いない。

そうに違いない。

 

23歳って大人ですか…?

−44 僕の幸せとは

2.20

 

誰に聞かれそうなわけでもないのに、「好きなタイプは?」と聞かれた時の回答をよく考えている。

今のところ「衣食住に金をかけない人」に落ち着いている。

 

衣:自分がファッションに興味がない。ユニクロとかワークマンとか、安くて小綺麗、機能性があるものばかり着ている。

「なんとなく」お金をかけている人が多い。

 

食:自分がバカ舌だから。「あそこのラーメン屋がうまい。あそこは不味い。」と語るのは楽しそうで憧れるが、自分は外で食べると「これでお金をとっているんだから不味いはずがない」と思いこんでしまって全部おいしく思えてしまう。

「ステーキが食べたい」と思ったら、でっかい肉の塊を焼いたものが食べれたら満足で、その肉が業務スーパーの中であろうと、デパ地下のブランド牛であろうと僕の中で変わらない。

「なんとなく」お金をかけている人が多い。

 

住:人の「生きるコスト」の最たるものでここにどれだけお金をかけるかで金銭感覚がなんとなくわかる。自分のグレードの証として、「なんとなく」でお金をかける人が多い。そういう人は、豊かな生活とは「いいところに住み、いいものを持っていること」と思っていそうな気がして、合わない。

 

大前提、世間に流されて自分が興味がないものに「なんとなく」お金をかける人が苦手なのだ。

 

僕の幸せとは、思い立った時に好きなことを始められて、好きなところに行けることだ。

 

生きるのに多くのお金がかかると、生きるために働かなければいけなくなる。

だから僕は、衣食住にお金はかけたくない。

こんなこというと、世界中を股にかける旅人でありたいみたいだけど、そうではなく。

腹減ったなと思ったらファミマにファミチキ買いに行けて、あの曲弾きたいなと思ったらギターを持つ時間があって、海を眺めてボーッとしたいなと思ったら釣りに行ける。

それで十分なのだ。

−39 幸せですか

2.24

 

幸せですか?

 

宗教の勧誘じゃないです。

 

「幸せですか?」って聞かれて、

「はい」と答えるのって難しい。

「はい!」って自信満々に答えられてもなんか胡散臭く感じてしまうし。

 

そもそも幸せとはなにか。

それは、各々の中にあるのだろうけれど、僕は遠い幸せを追いかけるのをやめようと試みることで、「まぁ、ぼちぼちですかね…」くらいは言えるようになる気がしている。

 

キラキラした人たちに囲まれながら大手を振って歩くようなことが「幸せ」とされがちだけれど、今になって思うのはそうした幸せは果たして自分の本心からの幸せなのかということだ。

他からどう見えていようと、自分で自分を認めて、「まぁ、こんなもんか」と思いながら生きること。

それこそが自分の幸せではないか。

建築現場で一緒になったホームレスにも幸せそうな人はいたし、24歳で手取り50万稼いでいても、いつも不機嫌そうな顔をしている人を知っている。

 

「昨日より少しギターが上手く弾けた」と嬉しくなったり、「でもまだまだ下手くそだな」と思って憂鬱になったり、上司にちょっと褒められて仕事が楽しくなったり、めちゃくちゃ怒られて辞めたくなったり。

これから先もずっと、そういうことを繰り返していくのだろう。

 

大人になると、なにかそうした不安から解放されるような気がして期待してきたけれど、どうやらそうではないということにはうっすら気づいてきた。

どっしりしてるように見えるおっさんもきっと、なにかしらの不安を抱えながら生きている。

ヒロトさんも言ってるくらいなんだから。

https://youtu.be/BUBS-echkKs

 

 

だから、こうした日常の繰り返しから抜け出そうとするのではなく、この先もきっと「こんなもん」であるということを受け入れること。

それこそが「幸せ」だと言い聞かせながら生きていきたい。

この「言い聞かせる」ことを「大人になる」とか、「諦める」とか、否定的に語られがちだけど、それでいいんじゃないか。

 

「こんなもん」の日常の中に潜んでいる小さな幸せを見落としてしまわぬよう、日常を、未来ばかりではなく今を、愛していたい。

 

−41 言うだけなら誰でもできる

言うだけなら思ってなくても言える。

なんて思って、人に優しい言葉をかけるのが苦手だった。

でも最近、そんな優しい言葉に救われることの多さに気づいた。

24時間勤務の連続の時、

「あんまり無理しなや」と声をかけてくれた人。

疲れてたのもあってか、本当に心救われた。

本気で思ってなくてもいい、というか、本気と本気じゃないものの境目ってなんだ。

−43 僕は「正しく」生きれない

2.18

おととい書いた「先輩」のことをまだ引きずっている。(いつまで引きずっているんだ)

論理的に行動する傾向と、感覚的に行動する傾向。人はそれぞれ、このバランスが違うのだと思う。

 

論理的に考えて行動する人は、感覚的に動く人を見て・意見を聞いて「間違い」を平然とおかす姿にイラつくのだろうし、感覚的に動く人は「正しい」事ばかりを言われて息苦しくなってくる。

 

僕は感覚的に動く傾向がやや強いと自覚している。

だから、論理的な先輩の正しさの押しつけで、上下関係も手伝って食らってしまった。

 

スパイ映画とかを見て「賢い人」に憧れてきたけど、僕はたぶん賢くなれない。情報を一瞬で整理する力に乏しい自覚がある。まず、部屋が片付けられないし。こないだの引越しと、その時の友人の反応で、その「片付けれなさ」が少し異常なことに気づいた。

あと、こうやってすぐ話が脱線する。

 

だけど、こういう「正しさ」を指針に行動しないことこそが、僕が誇れることではないだろうか。

人間は「正しい」ことだけをするわけではない。

だから人は不倫や浮気をする。

 

意見の食い違った結果導き出された「正しさ」なんて、その場でどっちがディベートが上手かったかの勝負に過ぎなくて。

僕は、自分が正しくないことを知っている。

だから、人は皆正しくないこと、「まぁこっちでいっか」と、それぞれ最後は論理的思考に見切りをつけた感覚的な「心地よさ」を求めて生きていることを知っている。

「正しさ」を押しつけないことこそが僕のいいところなのだ。

−42 心で生きている

2.19
僕は心で生きている。
なんて言うと、優しさに溢れた人間だと言っているみたいだけど、そうではなく、頭で考えるのが苦手だという意味で。

先を見越してとか、論理的にとか、難しく考えるのが苦手だ。
漠然とした不安に流されて、惰性で貯金をしたりしている。
不安を打ち消す力こそ、頭で考えるということなのだと思う。
その力は僕にはないから、いつも漠然とした不安の海の中を息継ぎしながら生きている。

地位とか名声とかから得られる悦というものは、一度頭を通して得られる快楽だ。
頭で社会における自分の立ち位置を考えて喜びを感じるものだから。
僕はそれには興味がない。
それよりも、好きな音楽を聴いて得られる、刹那的な気分の高ぶりを拾い集めて生きていたい。
不安の海の中を泳いで生きる中で、息継ぎをさせてくれるのが音楽なのだ。
たぶんぼくはどれだけ金持ちになっても、偉くなっても、海から上がることはできない。

不安の中を生きているというのは頭で生きている人たちも同じだと思うけれど、彼らは地位とか名声によって、海が見えなくなるのだと思う。

息継ぎしてあっぷあっぷしながら生きるか、海を見ずに生きるか。
海の中をジタバタしている人の気持ちは、ジタバタしている人にしかわからない。

 

どっしりした頼りがいのある男には憧れるが、僕にはそうはなれそうにない。
だから、あっぷあっぷしながら生きる人と、「きっついね」とか言いながら笑ってられる余裕を持ち続けて生きていきたい。